優秀賞
第9回 看護・介護エピソードコンテスト『在宅ターミナルケアを選択して』
井上 文子さん

昨年10月、私たち家族は山形の夫の実家で、2年にわたり施設で暮らしていた義父を在宅で看取った。ただ、義父が在宅で過ごせたのは3か月で、義父は胃がんの手術後、歩行困難となり、リハビリ施設に転院し車いす生活を送っていた。施設にいる間は、コロナ禍で家族の面会は一切許されなかった。そんなある日、がんが全身に転移していることが判明。この時、義理の妹や私たち家族は迷わず、父が望むなら在宅ケアへ切り替えたいと誰もが思った。父もまた「うちに帰りたい」と望まれ、ホームヘルパーさんや在宅ケアの手配をし、埼玉に住む妹と東京に住む夫や私たち家族が交代で実家を訪ねる形で、在宅ターミナルケアがスタートした。

毎日朝夕とご飯を作り、清拭などに来てくれる介護ヘルパーさんや、心ある看護師さんたちのおかげで、日々の暮らしをどうにか回し、妹や夫も交代で山形に毎週のように通い、月数回は私や父が可愛がってくれていた息子を連れて帰った。最初のうちは一緒に食事をとることもできた。「あー、やっぱりうちが一番」と父は始終機嫌がよく、穏やかな日常を送ることができた。がんで胃を摘出したため、少量しか食べられない父のために、消化がよく、目で楽しめる食事を作るよう心掛けた。

中3の息子も、祖父の病状を当然ながら理解していた。普段親とはろくに会話もしない息子だが、小学校時代は毎年夏休みに1人でやってきた山形の実家は、息子にとってまさに田舎で、滞在中は祖父のそばを離れなかった。縁側のお気に入りの椅子に腰かけ、外を眺める祖父の隣で、さりげなく祖父の手を握ってみたり、息子なりにコミュニケーションをとっていることがわかった。父も2年間会えなかった孫を優しいまなざしで見つめては、「お前を観ているだけで、ジジは元気出るぞ」と嬉しそうに言葉をかけていた。

数週間に一回は息子も東京から駆け付けたが、そのたびに父の体調は悪化していった。ヘルパーさんが作ってくれた食事も手をつけない日が夏から続いた。冷やした果物などは食べてくれた。この時期、喜んで受け入れてたのは、温灸や玄米を手ぬぐいに入れて縫った手製のホットパックだ。特に温灸で冷えた足や手を温めるのは喜ばれたので、滞在中は毎晩じっくりかけていたし、温めたホットパックをお腹にのせたりした。

夏休み滞在中のある日、どうにか父を楽しませることが何かないだろうか?と考えているとき、「そうだ!花火を見せてあげよう」と思い付き、息子が小さい頃よくやった手持ち花火を買ってきて、夜庭先で日本一静かな花火大会を開催した。父は縁側からその様子を見守っていた。

それから1か月半後、とうとうお別れの時がやってきた。私たちが東京から駆け付けた日、父は声をかけても反応が鈍かった。でも夜に都心の学校から新幹線で駆け付けた息子が、「じいちゃん、オレだよ」と耳元で声をかけた瞬間、パッと目を開け、息子の顔をみて、にっこり笑顔になった。父が「見えるぞ。ありがとうな」と口で伝えているのがわかった。

ただ、翌日も父は殆ど反応せず、お別れの日が近づいていることを覚悟した。夫に、「今のうち伝えたいこと伝えた方がいいかもしれないよ」と伝えると、夫はその晩、父の枕もとで、これまで育ててくれた感謝の言葉を手を握りしめながら伝えていた。「両親のおかげで今の自分がいます。本当にありがとう」、そんな声が30分くらい聴こえてきた。

その翌日も殆ど朝から父は反応しなかった。夜になると父の呼吸がおかしくなり、在宅ケアの看護師さんに連絡をいれた。到着するまで、家族3人で父の手や足に触れ、みんなで、感謝やお別れの言葉を述べた。息子は「じいちゃん、大好きだよ」としっかり手を握りしめながら、叫んでいた。その時だけ、これまでまったく反応がなかった父が何か必死に言葉を発しようとしていたが、言葉にはならずわからなかった。ただ、優しかった父のことだから、家族の皆へ「ありがとう」と伝えようとしたのではないだろうか。

看護師さんが到着してすぐに父は旅立った。「ようやく髪の毛を洗わせてくれますね」と優しく父に声をかけながら、看護師さんが父をシャンプーしてくれる姿をみて、感謝のあまり胸がいっぱいになった。その後いらした在宅医も、熱心に毎週埼玉から山形まで通いつめた義妹が立ち会えなかったことを気にされ、この場にいなくとも妹さんの思いは十分お父様に伝わっていますから。そのようにお伝えくださいと妹のことを気にかけてくださり、素敵な医療者に恵まれ、父は幸せだったなとしみじみ思えた。

1人暮らしだった父の在宅ターミナルケアは、日中はヘルパーさんたちの協力を得ても、家族が24時間毎日付き添えるわけではないので、「最期誰もが立ちあえないかもしれない」というリスクも当然あった。それでも貫きとおしたのは、父が在宅に残りたがったからだ。「何があって二度と入院したくない」と漏らした父は、最後きっと痛みもあったはずだが一言も痛いとも苦しいとも訴えなかった。入院させられたくない一心だったのだと思う。「父の意思を尊重してあげたい。できることなら在宅で看取ってあげたい」と、毎週新幹線で関東から通いつめた義妹や夫もよく頑張ったと思う。その頑張りの結果、もしも施設にいたら叶わなかったかけがえのない旅立ちを迎えることができた。

大工だった父が50数年前に自分で建てた家で、愛してやまなかった初孫に「大好きだよ」と手を握られながら、旅立てたことは父にとってもきっと幸いだったと思うし、私たち家族にとっても救いとなった。コロナの渦中も毎日父を支えてくれた介護ヘルパーさんたちや医療関係者の皆様にも心から感謝を伝えたい。こうした福祉や医療に携わる方々の尊い仕事が社会的にもっと評価される社会になってほしいと切に願う。