大賞
第5回 看護・介護エピソードコンテスト『最後の時間』 森川 詩歌さん

私は祖父のことが嫌いだった。小学生の頃、洗面台の横で乾かしていた書道筆や、脱衣所に置いていた上靴袋をゴミと間違えて捨てられたことは一度や二度ではなかったし、お風呂場の椅子に、祖父が始末に失敗した大便がこびり付いていたこともある。とにかくがさつで無駄に声が大きく、暇さえあれば戦争の武勇伝を語って聞かせるような人だった。何よりも、息子の嫁である母のことをぞんざいに扱うのが許せなかった。残業のために疲れて帰った母を、「夕飯はまだか」と急き立て、自分より先に風呂に入ることを決して許さなかった。私が生まれた時は、跡継ぎの長男ではなかったことをあからさまに残念がり、隣のベッドで三人目の男の子を出産したお母さんを見て、「換えてもらえばいい」と言い放ったらしい。私が幼い頃は、祖父に対しての不満を一切漏らさない賢明な母だったが、祖父のあまりの傲慢ぶりに耐え切れず、長らく単身赴任で家を空けていた父との離婚を本気で考えていたと、大人になってから聞いた。

そんな祖父が病に倒れたのは、私が結婚して間もない頃だった。大腸にできた腫瘍は、すでに全身を蝕んでおり、完治の見込みはなかった。残りわずかな時間を少しでも穏やかに過ごすため、痛みを取り除く手術をすると父から連絡があった。就職して三年目。ようやく仕事が楽しくなり、嫁ぎ先での生活も始まったばかりの私にとって、祖父を見舞うような余裕はなかった。もちろんそれが言い訳であることは分かっていた。だが、そのことに大きな罪悪感もなかった。たいして懐いてもいなかった孫娘が駆け付けたところで、祖父の目にもきっと、白々しく映るのだろうと思っていた。

だが、祖父の手術からふた月ほど経ったある日、母から「おじいちゃんに会いに来てほしい」と連絡があった。今更どんな顔をして会いに行くのだと思うと、重い腰をあげることがなかなかできなかった。しかし、他でもない母の頼みだ。意を決して祖父の病室を訪れると、消毒液と排泄物の臭いの中で眠る祖父の傍らに痩せ細った母の姿があった。聞けば、祖父の手術から二カ月間毎日、一時間しかない昼休憩に病院を訪れ、カーテンで仕切られた薄暗い病室で弁当を食べているらしい。退勤後も、一度帰宅して夕飯を作った後、面会時間ギリギリまで病室にいるというのだ。当時、耳も目も悪くなり、テレビや本で気を紛らわすこともできない祖父の話し相手になるために。母の体重は二カ月間で七キロも落ちていた。なぜ母が、祖父のためにここまでするのか、まったく分からなかった。元気だった頃の祖父の暴君ぶりに、一番振り回されていたのは母だったはずだ。それなのに、どうしてこんな……。

母は、その理由をこんな風に話した。

手術を終え、麻酔から覚めたばかりの朦朧とした意識の中で祖父は、「ホヅミさん……どこにおる、ホヅミさん。」と母の名を呼んだというのだ。息子である父ではなく、死んだ祖母でも、実の兄弟でもなく、母の名を、だ。「ここにいますよ。」と答えた母に、すがるように伸ばしてきた祖父の手を握った時、母は祖父の最期は自分が看取ろうと決めた。

祖父と母との間に、楽しい思い出はあまりなかったかもしれない。それでも、二十五年間、母の尽くした献身を祖父はしっかり感じていた。だからこそ、心も身体も弱り切った時に求めたのが、母の手だったのだと思う。母もまた、祖父の手の温もりを感じた瞬間、その思いに応える決心をした。

私は、今まで祖父の病室を訪れなかった自分を恥じた。母に同情するふりをして、祖父の行いを責め続けることで、そんな自分を正当化していた。結局、母一人に、すべてを背負わせていた。たとえ祖父が求めていたのが私ではなく母の手だったとしても、その母の肩に手を置いてあげることはできたはずだ。

その日から、時間を見つけては祖父の病室に通うようになった。あんなに嫌いだった戦争の話に真剣に耳を傾けた。祖父の好物だったはずのすいかを持って行き、祖父がするように、塩をかけて一緒に食べた。そのうち弟に子どもが生まれ、初めての曾孫を抱いた祖父を囲んで、家族写真を撮った。写真の中の祖父は、こんな顔をする人だったのかと思うほど、優しい顔で笑っていた。

家族の形や事情はそれぞれだ。すれ違いを続け、わだかまりが大きなしこりとなり、疎遠になったり憎しみ合ったりしている家族もあるだろう。元気なうちにわかり合えたなら、それ以上の幸せはない。だが、もしそうでないとしたら、そのしこりを取り除く最後のチャンスは、人生の旅を終えようとしている家族に寄り添い、手を握り、看取ることかもしれない。祖父との時間を過ごすまで、看取りは、逝く人のために過ごす時間だと思っていた。しかし、残される人にとっても同じくらい、大切な時間なのだと今更ながら気づかされた。

祖父は最期、母に手を握られ、家族に見守られながら旅立って行った。遺影には、病室で撮った家族写真を使った。若い頃に比べ、随分やせ細っていたが、あんなに幸せそうな顔で笑う祖父の写真は他になかった。

祖父の死後、実家を訪れる機会が随分増えた。子どもが生まれたからでもあるが、もし、祖父と最後の時間を過ごすことができていなかったら、こんな風に父と母の顔を見たいと思うこともなかったのかもしれない。

「家族」として見送らせてくれた祖父に、今は感謝しかない。