選考委員特別賞
第10回 看護・介護エピソードコンテスト『救われたのは私だった』
前田 幸子さん

「あなたが笑顔じゃなくて、救われました。」

高校進学時から貸与された奨学金の返済などを考えて、消去法で選んだ助産師という職業。仕事への強い意欲があるわけでもなく、かといって辞める瞬発力もなく、という24歳の頃だった。感情表現が苦手で、同期とは何かと比べられ、「新人らしいフレッシュさがないんだよねえ。」と言われては落ち込んだ。そんな最中、ありきたりな失恋をした。結婚退職の夢も絶たれ、家で毎日泣いては、心ここに在らずで勤務する。笑い顔も忘れた。そんな体たらくだった。

そんな最中、日勤帯でICUからの連絡があった。付き添いしていたご家族が産科病棟に至急入院するらしい。私が入院受け入れをすることになった。
患者様は妊娠7週、流産での入院。お子様がインフルエンザ脳症でICU入院中、出血しその転帰をたどった。再婚し、念願の第二子を授かったところでのお子様の入院であると転書からの情報ではあった。そして流産。未熟な私であってもその悲しみたるや推して図るべしだった。患者様は手術を受けた。「包帯を巻いてあげられないのなら、その傷に触れてはならない」とはよく言ったものだ。私は受け持ちとしてその場面で自分が出来るだけの看護を行なったように思う。それでも私は自分の個人的な悲嘆にまだかまけていて、様々な想いを慮る余裕はなかった。しかし、なけなしのプライドで苦痛が最小限に患者様が過ごせますようにと今の自分が出来ることに集中した。せめて気がまぎれるかと清拭を丁寧にしたり足浴などのケアをしたり。話にはもっぱら相槌を打つことしかできなかった。共感なんて烏滸がましい、と口を閉ざした。

入院中、患者様は取り乱す事もなく、静かに過ごされていた。そして退院の日を迎えた。とはいえ家に帰るわけではなく、別階のICUに戻られるのだ。着の身着のままの入院で、あまりにも少ない荷物。ICUに着いた時、小さな封筒を私は受け取った。入院中はありがとう、あとで読んでね、と患者様は言い残し、私達はお別れした。

手紙を見るのは少し怖かった。私が受け持ちで、ごめんなさい。他のスタッフならもっと的確に寄り添えていたんだろう。そんな気持ちで封筒を開けた。
「入院中はお世話になりました。念願の赤ちゃんを流産して、とても悲しい出来事でした。上の子の容態は深刻だし、私は一度に子供を二人も失うの?神も仏もない。と何かを恨みたい気持ちでもいっぱいでした。」
「産科病棟に来た時、あなたが出迎えてくれて、私はあなたの若さに複雑な気持ちでした。こんな未来ある若い助産師さんのはつらつとした姿なんて見てられない。なんなら、大変でしたね、なんて声をかけられたら、あなたに何がわかるの。と罵倒してしまいそうで、困ったなと思ったのです。」
「そんなふうに実は身構えてました。でも!あなたは笑顔ひとつ見せないで、何かとんでもないことがあったのかと私が訝しむほど暗い顔で、でもひたすらその場その場で私に向き合ってくれた。だから私、あなたの前で、無理しなくてすみました。悲しい、受け入れたくないことが起こった私、でいられました。それがとてもありがたかった。あなたが笑顔じゃなくて、救われました。」
「人生は、私みたいに、時にとんでもないことが起こります。笑顔になれないあなたに何があったのかはもちろんわからないし、もしかしたら何もなかったのかもしれないけれど。ただ、私のように、今のあなたに救われたと思う人がいたことを伝えたかった。いろんな看護師さん、助産師さんがいても、私はいいと思います。」
「でもね、やっぱりまだ若いんだから、あなたが笑えるようになることも人生の先輩は願ってます。」

まだ仕事の途中なのに、情けなさと恥ずかしさで涙が止まらなかった。しかしどこかで、私なりのこの仕事への向き合い方がもしかしたらあるのかもしれないと思えた転機でもあった。一瞬でも、私を必要としてくれた。未熟さも至らなさも全部受け止めてくださった患者様。申し訳なさとありがたさで、もう、泣くのは最後にしようと、前を向いた。あの日、病棟の片隅で救われたのは患者様ではなく、医療従事者の私だった。

そしてあれから25年、私は今も助産師として働かせていただいている。この仕事に向いているとは正直今でも思えないが、患者様に支えられ、育てていただいたと、年を重ねるごとにその想いは強くなる。人はいつも誰かを支え、そして支えられている。出会いという経験を積んだ私は、昔よりはきっと上手く笑えるようになった。しかし、あの頃の自分の痛々しいまっすぐさも忘れてはいけないと、患者様との一期一会の日々で、思うのだ。

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