第10回 看護・介護エピソードコンテスト『ほんとうのきもち』
末弘 千恵さん
末弘 千恵さん
「私は延命治療は望まない。命を延ばすだけなら、治療はせず、ただ家族と一緒に過ごしたい。」
65歳で腎臓がんが発覚した母は、そう言った。
「できれば初孫の結婚式には出席したいから、それくらいまでは生きていたいけど。」とも話していた。
母は美しい人だった。
子どものころ、参観日には、いつも一番乗りに教室入りする母に「こんなに早く来ないでよ」と怒ったふりをしていたが、本当はどのお母さんよりも若くて美人の母が自慢だった。
病弱ではあったが、天真爛漫で、家族からは「不思議の国の妖精さん」と呼ばれ、母の周りには笑いが絶えなかった。
腎臓がんが発覚した時、腎臓は本来の大きさの10倍近くになっていて、下大静脈まで進行していた。
すぐに手術をしなければ、いつ破裂してもおかしくない状態。
長時間の手術に見事耐えた母は、その後、抗がん剤治療をしながら、自宅での療養生活に入った。
術後、家事ができるまで回復し、毎日仕事に追われる私の代わりに、孫や父の食事を作ってくれた。
「ばあちゃんが作ったごはんが一番おいしい」と嬉しそうにご飯を食べる孫たちを目を細め見ている母は、いつも幸せそうだった。
手術から3年、がんの再発。
全身に骨転移。痛みとの闘いが始まった。
我慢強い母が、思わず声がもれるほどの痛みは、どれほどだったのだろう。
様々な麻薬を試し、疼痛緩和を目指したが、その副作用でADLが低下した。
抗がん剤も使った。
そのたびに、母はどんどん痩せていってしまった。
「このまま、ただベッドの上で死ぬのを待つだけなら、抗がん剤治療はやめたい」
主治医からも、これ以上の治療は難しいと言われ、入院はせず、疼痛管理を中心に、往診医、訪問看護ステーションからのサポートを受け、自宅で母らしい生活が送れるようにしようと決めた。
私は、介護の仕事に就いて25年以上、これまでもご利用者の最期に関わらせて頂いてきた。
だから、母も自宅でお看取りしたいと考えていたため、介護休暇を取った。
県外で働く弟も、在宅ワークに切り替え帰省した。
隣接する市に住む妹も毎日通いで母に会いに来てくれ、万全の体制で、24時間のケアが始まった。
往診医より、「もう点滴をやめましょう」
そう告げられ、家族でいよいよかと腹を括った。
特別なことは何もしないが、母が愛したこの家で、家族で穏やかにいつもどおりの生活を送ろうと決め、生活を続けた。
穏やかな顔をして、すやすやと眠る母。
経口摂取、点滴をすべて中止し、10日目のお昼すぎ。
母は突然開眼し、体を起こした。
そして「おにぎりが食べたい」と小さいがはっきりとした声で訴えた。
ちょうど訪問してくれていた訪問看護師さんと「突然、おにぎりなんか食べたらのどにつかえちゃうから、せめてゼリーにしよう?」と説得するが、どうしても「おにぎりが食べたい」と言って譲らない。
私は覚悟を決め、小さなおにぎりをにぎった。
「母さん、お願いだからゆっくり食べてね」
手渡すと、うれしそうにおにぎりを食べる母。
誤嚥することなく、全て食べ終わったあと
「あぁひどい目にあった。私は死にそうだったのに、みんな何にもしてくれんかった。点滴するとかあるじゃろう・・」と笑った。
私は驚愕した。
母とはずっと一緒に暮らしていたし、母のことは理解しているつもりだ。
母はいつも「延命は希望しない、変わらない日常を過ごしたい」と言っていたし、仕事柄、看取り期の経過も知っている。
娘として、専門職として、関係者とよくよく話をした上の点滴中止だったのだ。
だが、母は、生きたかったのだ。
介護現場でキャリアを積み、色々なことを分かっていたつもりになっていた私は、母の最期の望みを読み間違えてしまったのだ。
これまでも、ご利用者の想いをくみ取っていたつもりだったのかもしれない。
そんな思いが私の中でぐるぐると黒い渦をまく。
あの時、母が生きていてくれることはうれしいことのはずなのに、私は喜びよりも、挫折した気持ちだったように思う。
私が考えてきた専門性って・・。
家族にしかできないことって・・。
母さん、間違えてごめん。
ダメな娘でごめん。
三途の川を渡り損ねた母は、その後1年ちょっと生きることができた。
最期は、転移部の脳腫瘍が大きくなり、話をすることも体を動かすこともできず、頭部のがんは表出したため、近隣の病院へ入院しケアを受けることになった。
以前の私なら、在宅にこだわり、入院という選択はしなかっただろう。
だが、母は最期まであきらめたくなかったはずだし、24時間医療体制がととのった病院で過ごす方が安心なはずだ。
そう自分に言い聞かせ、1日5分しかできない面会で、状態が悪化する母を見守った。
母の最期は自分でケアをしたいと思っていたけれど、病院ではそれも叶わず、歯がゆい思いをしながら、家族と母を見守った。
11月16日早朝。
突然の電話だった。
病院から急変の連絡。
家族で、すぐに病院に向かったけれど、母は一人で静かに旅立ってしまった。
「母さんは猫なの!?だれも待たず、一人でひっそり逝ってしまうなんて。自由すぎるでしょ!」と母に向かって声をかけていた。
最期まで、耳は聞こえるので、声をかけてあげてください。
これまでの思い出を、ご本人のそばで、家族と語り合いましょう。
何度もご利用者のご家族にお話ししてきた。
最期は、「母さん、ありがとう」と言ってあげようと決めていたのに。
結局、私は何にもしてあげることができなかった。
葬儀が終わり、仕事に復帰。
ありがたいことに、忙しく過ごすことで、あまり落ち込むことがないと思っていたが、母と一緒に見た景色、一緒に聞いた音楽、ふとした瞬間にいろんな感情が湧き出てきて、涙が出てしまう。
母さん、あなたは最期まであなたらしく過ごせましたか?
私はいい娘だったのでしょうか?
もう直接答えを聞くことはできないけれど、これからは、言葉にできない想いに、寄り添える福祉マンであり続けたい。