優秀賞
第10回 看護・介護エピソードコンテスト『優しいうそ-バスの来ないバス停』
武田 誠さん

「一度、帰らせていただきます。」

寒い冬の朝、その入居者の方は何度も何度も同じ言葉を繰り返していた。表情はこわばっていて、誰が見ても落ち着かない気持ちが見てとれる姿だった。その入居者の方は、時折自宅に帰りたい気持ちにさいなまれ、過去には早朝に窓から外へでてしまうほどのお方だ。その入居者の方は、遂に思い立ってフロアのドアを自ら開け、事務所につながる廊下へ歩んでいった。

「帰りますので。」

事務所の前の出入り口のドアノブに手をのばし、開けようとするもロックがかかっていて外にでることができない。その入居者の方はますます穏やかさを失っていた。

認知症グループホームでは日常的に見られる風景。「そろそろ夕飯の支度をしに戻らなきゃ…」「病気の母親の看病をしに帰らなきゃ…」「息子が学校から帰ってくる前に家にいてあげないと…」。今現在ではない記憶の中で生きている認知症の方にとっては、今ここに居るグループホームは「家」ではない。だから「家に帰りたい」という気持ちになる。私だって仕事が終われば「家」に帰る。どれだけそこが素晴らしい場所であっても、どれだけそこに居る人たちがいい人たちであっても、「家」ではない場所で留まろうとする理由にはならない。「家に帰りたい」という気持ちは、認知症の人でもそうでない人でも違いはない。「家に帰りたい」という気持ちはどの職員も十分に理解できる。だから、帰宅願望を何度も訴えられると職員はつらくなる。でも、介護のプロとしての対応をしなくてはならない。ということで、私の勤めるグループホームではそんな場面を解決に向かわせる秘策を編み出した。

私はドアのロックを外し、一緒に外へ出た。玄関の前にあるバス停に案内する。
「ありがとうね。」
入居者の方は今までとは打って変わって笑顔になり、握手を求める。握手をする手からは安心した気持ちがじーんと伝わってくる。入居者の方はバス停に書かれた時刻表を見て
「どこの病院に行こうかな。」
と職員に話される。しばらくバス停で話し込んでいると、入居者の方はこう話す。
「バスに乗っている間に、トイレに行きたくなるといけないので…。」
入居者の方はグループホーム内に一旦戻り、トイレに向かった。用を足してからは、気持ちが更に落ち着いた表情でバス停の前に戻ってきた。入居者の方はバス停のベンチに腰掛け、穏やかな様子でバスを待つ。でも、いくら待ってもバスは来ない。その理由は、このバス停が『バスの来ないバス停』だから。私の施設の玄関には、かつて路線バスのバス停として実際に使われていた代物がたたずんでいる。今はもう使われないバス停が、廃棄物ではなく認知症の人を助ける「優しいうそ」のバス停として再び役目を果たしている。この優しいうそのバス停は、とある認知症啓発イベントを一緒に盛り上げてくれたバス会社の職員の方に取り次いでもらい、バス会社取締役が自ら軽トラックで運搬して寄贈されたものだ。
「あぁ、寒いね。」
入居者の方はいつの間にか自らフロアに戻ってきて、他の入居者の方々と昼食を楽しんでいた。この時点で「家に帰りたい」という気持ちは収まり、その後は穏やかに過ごされた。

このバス停はグループホームの入居者だけでなく、地域で暮らす認知症の方が道に迷った際も目的地に向かうバスを待つ場所としても活用できる。地域住民の方からは、
「このバス停で誰か見知らぬ年寄りが困った様子で居るのを見かけたら、あんたのグループホームに教えてあげればいいんだな。」
とバスの来ないバス停であることを理解してもらっている。優しいうそのバス停は、認知症の人が「いつでも行きたいところに行ける」という安心感とともに、地域に住むみんなで支え合えるつながりを持たせてくれる。私の勤めるグループホームの秘策「バスの来ないバス停案内作戦」は、認知症にやさしいまちづくりにも一役買える誇らしさがある。

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